パワースポット

富士山が第37回世界遺産委員会で世界遺産に登録されました。富士山から45キロメートル離れている三保の松原の除外勧告がなされていましたが、見事に三保の松原も含めての世界遺産登録となりました。富士山の世界遺産登録審査ですが、最初はユネスコの諮問機関から「富士山は世界遺産に登録することがふさわしいが、三保の松原は除外すべき」と言われていましたが、信仰の山でもある富士山は三保の松原からの眺めも素晴らしくなんとしてでも、三保の松原も・・という働きかけで見事に登録になりました。そしてユネスコの世界遺産登録では「富士山ー信仰の対象と芸術の源泉」という構成資産に登録となっています。

そして、石川県と岐阜県にまたがる白山(はくさん)こちらも古くから信仰の山として親しまれている山です。そして白山は富士山・立山と共に日本三霊山(日本三名山)でもあります。古くから霊峰として白山親交があり、中世には白山修験の道場が開かれて白山信仰の全国的広がりのもとにもなりました。白山へ登山するための駐車場から登山道へいく途中には大きな鳥居があり、そこをくぐってから大きな吊り橋を渡って白山への登山は始まりますが、その鳥居をくぐると「これから霊山に入るんだ・・」と気持ちも引き締まる気持ちになります。白山の頂上まであともう少しのところにある室道にももちろん鳥居もあり、そこには奥宮祈祷殿もあります。奥宮祈祷殿では毎年開山式が行われています。古くから人々は白山を仰ぎ見て、自然に敬意を払いそして感謝していたことがうかがえます。この気持ちは山岳信仰と言われていて、山を神聖視して崇拝の対象としています。そして今では私たちは「パワースポット」と呼んでいますが、昔の人は山岳地に霊的な力があると信じていました。雄大で山の持っている圧倒的な力を感じていたのでしょう。

自然に感謝している気持ちからも崇拝対象としての山岳信仰が生まれたと言われていますが、その信仰は内陸地山間部にその傾向が強く見られています。高い頂きを持つ山に冬には雪が積もります。そしてその雪は生活に欠かせない水として、川を辿って流れ出てきます。山からの恵みでもある水を麓では年間を通じて利用しています。衣食住のすべてに渡って山からの恵を受ける事で、自然への感謝の気持ちを再認識していたのでしょう。

そして山へ一歩足を踏み入れると、厳しい地形であったり自然環境の状態では自分の命さえも危うい環境にもなります。決して侮れない環境でもあるがゆえに、「山の機嫌を損ねる」行為を禁止してそのことを子供たちに伝えていったそうです。もちろんこのようなことは世界の最高峰エベレスト(チョモランマ)でも同じです。エベレストもチベットの人達は霊山で信仰の山でもあります。日本から登山隊がチョモランマへアタックする時も必ずベースキャンプではチベット仏教でのプジャ(祈祷)を行います。登山隊のガイドとして、そして荷物を運んでくれるシェルパの中でチベット僧の資格を持っているシェルパがチベット仏教でプジャをしてくれるので、その時には祭壇にお供えをして安全祈願の為に登山道具のお祓いもしてくれれます。

白山ですが、富山県、石川県、福井県、岐阜県の4県にまたがっています。そして両白山地(岐阜県、富山県、石川県、福井県と滋賀県にまたがる山域)の中央へ位置しています。そして北陸地方では一番高い山(標高2.702m)で、他の低い山が雪が無くなっても白山には雪が残り「白い山」として遠くにいても白山を確認することができます。そして白山が更に雪が積もっている状態をみると「もうすぐ冬が来る」という冬の到来を確認するのもすべて白山を見れば分かります。それだけ大きく高い山の白山だったのも、たとえ白山の麓に住んでいなくても、仰ぎ見る信仰の山(神体)になったのでしょう。

信仰の対象の白山ですので、もちろん「白山神社」も日本各地にあります。白山神社の数は約2700社で、その総本山として白山比咩神社(しらやまひめじんじゃ)があります。白山比咩神社の本宮は石川県白山市参宮町にあり、白山比咩神社の奥宮殿が、山頂への拠点になる室道にあります。「はくさん」ではなく「しらやま」となっていますが、かつて『越白嶺』と書いて『こしのしらみね』と呼ばれていました。その名残で現在の白山周辺の地名で『白嶺』として残っています。その後に『白山』と書いて『しらやま』と読む時期があり現在『はくさん』と呼ばれていますが神社は昔の読み方で『しらやま』とそのまま呼ばれています。白山山頂へ登るための「登山道」ですが、832年(天長9年)に白山への登拝道として禅定道(ぜんじょうどう)が開かれました。今でもその大部分が白山への登山道として利用されていますが、禅定道は山へ修行に登るための起点でもありました。白山の禅定道が開かれたのは平安時代ですので、その歴史の古さに改めて驚かされます。

泰澄が白山に入ったのは養老元年ですがそれから3年後の養老3年(719)7月3日に、神霊の託宣によって白山が開かれて以降、天長9年(832)に三馬場となる加賀・越前・美濃の3ケ所に馬場(ばんば)が設けられました。馬場(ばんば)とは、登山口のことをいいます。登山口はそれぞれに加賀馬場、越前馬場、美濃馬場と呼ばれています。そしてそこは白山登山道の拠点であるだけでなく、里宮=遥拝所の所在地でもありました。各馬場には、白山を祀る寺社がそれぞれにあり、加賀には白山比咩神社、美濃には長龍寺、越前には平泉寺があります。

三馬場の加賀・越前・美濃の馬場ですが、とても面白いことにほとんど同時に設けられたようです。同時期ということあって、お互い「こちらが本家!」とばかりに競争心を丸出しにして、名乗り合いをしていたようです。そして、その三馬場は江戸時代以降、ますますその勢力争いが激化して行くことになり、白山の山頂に祠を造営することを巡って、寺社奉行に訴えを出したりとよく揉めていようです。この揉め事には他に理由もあって、白山から木を伐り出す権利なども絡んでいました。そこで、江戸幕府は、寛政8年(1688)、牛首(白峰村)、尾添(尾口村)他白山麓18ヶ村を天領(幕府直轄地)とします。そして山頂一帯を平泉寺のものと裁定をくだすことになりました。

白山信仰

白山信仰は古代から「白山」を神体としてみなしていましたが、白山を水源とする九頭竜川(福井県が本川、支流に岐阜県郡上市)、手取川(白山市を流れて日本海へと流れ出る)、長良川(郡上市から三重県を経て揖斐川と合流)流域を中心として、農業をするうえで絶対に必要な水を供給してくれる源として、水神そして農業神として崇められていました。そして、信仰対象の山を修験の山「霊山」として開山して白山信仰へと繋がっていきました。

白山は泰澄(たいちょう)が開山したと言われていますが、奈良時代の養老元年(717年)に山へ籠って厳しい修行を行い悟りを得るための泰澄(たいちょう)が御前峰(白山の頂上)に登り瞑想していました。

泰澄は十一面観音を念じていました。(もしかすると、真言オン ロケイジンバラ キリク オン マカ キャロニキャ ソワカ と陀羅尼のオン・ダラダラ・ジリジリ・ドロドロ・イチバチ・シャレイ・シャレイハラシャレイ・ハラシャレイ・クソメイ・クソマバレイ・イリミリ・シリシチ・ジャラマハナヤ・ハラマシュダ・サタバ・マカキャロニキャ・ソワカ と唱えていたかも・・)

その時に白山の代表的な火口湖の翠ヶ池(みどりがいけ)から十一面観音の垂迹(すいじゃく)でもある九頭龍王が現れてイザナミの化身【白山明神・妙理大菩薩】と名乗ったと言われています。

白山で白山明神を感得した最澄したことで、白山は修験道の場となり白山信仰の基にもなりました。そして、白山修験は一山組織を成すまでになり「白山衆徒は三千を数う」」「馬の鼻も向かぬ白山権現」といわれるほどまでになり、中世には加賀国を中心に宗教的そして政治的にも隆盛を極めていきました。白山での修験は熊野修験に次ぐ勢力だったいうほどです。特に南北朝時代には北朝方の高師直(こうのもろなお)が吉野一山を攻めて南朝の敗勢が決定的となり、吉野熊野三山間(熊野大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)の入峯が途絶えたということもあって、さらに白山修験が勢力を伸ばしていき、白山信仰が日本全国に広まっていきました。

泰澄が見た十一面観音の垂迹(すいじゃく)とはいったい何のことでしょうか。垂迹は迹(あと)を垂れるという意味になり、神仏が現れることをいいます。そして、修験道は神仏習合の信仰でもあります。神仏習合は日本の土着信仰でもある古神道と仏教信仰がまざわって再構成された信仰です。イザナミの化身として表れて【白山明神・妙理大菩薩】と名乗ったことが起源となり、は白山権現として祀られることになりました。そして、全国の白山権現社で祀られることになりましたが、神仏分離・廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)が行なわれて、現在の白山権現社の多くは、菊理媛神(くくりひめのかみ)を祭神とする神道の白山神社となりました。

神仏習合と分離

白山山頂本社と白山寺白山本宮には、本地と垂迹の関係で神道としては白山権現はイザナミ(伊弉冊尊)で、両神が白山比咩神(しらやまひめのかみ)でした。室町時代の後期、1480年(文明12年)白山寺白山本宮が加賀一向一揆の攻撃で焼失して三ノ宮に移転して同座することになりました。

吉田神道(神道の一流派)の『大日本国一宮記』に「白山比咩神社、下社(本宮)伊弉冊尊、上社(三ノ宮)菊理媛、号白山権現」と記されたことにより、この記載にある上社を移転先の三ノ宮ではなく白山頂上本社と誤認してしまい、菊理媛神を白山比咩神や白山権現とする異説が流布されることになりました。誤認というのがちょっと信じられない出来事にも思えてしまいますが・・。

明治維新の時に神仏分離・廃仏毀釈によって、修験道に基づく白山権現は廃止されました。三馬場のうちの、加賀国の白山寺白山本宮は廃寺、白山比咩神社に強制的に改組されることになりました。越前国の霊応山平泉寺も同じ様に廃寺になり、平泉寺白山神社に強制的に改組されました。美濃国の白山中宮長滝寺は廃寺は免れましたが、長滝白山神社と天台宗の長瀧寺に強制的に分離されました。ごく少ない寺院ですが、廃仏毀釈を免れて現在でも白山権現を祀る寺院もあります。自生山那谷寺(石川県小松市)、深雪山上醍醐寺(京都府京都市)、書写山円教寺(兵庫県姫路市)です。

そして、曹洞宗は白山権現を曹洞宗大本山永平寺の守護神・鎮守神としています。それは曹洞宗の開祖道元が宋から帰国する前夜に、白山権現が碧巌録(へきがんろく・中国の仏教書)を助けてくれたという伝承があるからです。今でも毎年夏に永平寺の僧侶が白山に参詣して奥宮の前で般若心経を読誦しています。

明治時代の神仏分離

1868年(明治元年)に、明治政府は「王政復古」と「祭政一致」の理想を実現するために、神道国教化の方針を採用しました。それまで広く行われてきた神仏習合(神仏混淆)を禁止するため、神仏分離令を発しました。もちろんこの発令に伴って白山も神仏分離になることになりました。

明治政府が、神道を国教とするために神仏習合を禁止する必要があるとしたことには、平田派の国学者の影響がありました。明治政府は、神仏分離令によって、神社と寺院を分離してそれぞれ独立させることにして、神社に奉仕していた僧侶には還俗を命じた他にも、神道の神に仏具を供えること、「御神体」を仏像とすることも禁じていました。

そして白山には明治維新の前には当然ながら、山頂や登山道の各地に置かれていた仏像がありましたが、明治維新の神仏分離・廃仏毀釈が行なわれると同時にこの時に引き下ろされて廃棄される運命にありましたが、銅造十一面観音菩薩立像(国の重要文化財)などの8体が現白山市(旧:白峰村)当時の林西寺住職と可性法師の手によって収集されて、現在も同寺境内の「白山本地堂」に安置されています。

白山三所権現

泰澄の瞑想と念仏によって現れた三神は(白山妙理権現、大行事権現、大汝権現)ですがこの三神をあわせて白山三所権現と言われています。そしてそれから白山修験がますます盛んになり、白山妙理権現の使者として五王子権現も祀られることになりました。

三所権現

五王子権現

白山は登山道もとてもよく整備されているので、とても登りやすい山ですが白山は【霊山】であり、古くから信仰の対象であった山。そして今でも登山客の安全を祈ってくれているということにも、心に留めていかなくては・・と思います。